『シルバースプーン・コンプレックス』の続編ですが、単独の作品としてもお楽しみいただけます。
これまで何度も訪れてはいるが、匂坂(さぎさか)家を訪問するときはいつも緊張する。
立派な石造りの門構えの前で、黒野時宏(くろのときひろ)は、コートの襟足に落ち着かなげに手をやった。長い髪はオールバックにして、ひとまとめに後ろでポニーテールにしている。飲食店に勤務する身として、日頃から不潔な印象を与えないように気を遣ってはいるが、今日はいつもよりもさらにきっちりと櫛目を整え、髭も夕方にもう一度、店の従業員用トイレであたってきた。
だが、隣の匂坂聖冬(さぎさかきよと)はそんな時宏の緊張には気付いてもいない様子だ。
「時宏ってば、何そんなところに突っ立ってんのさ」
そのままドアベルも鳴らさずに門を開け、躊躇なく玄関に向かう。自分の実家なのだから当然と言えば当然なのだが。
時宏は口元に苦笑を忍ばせながら、その後ろ姿を見やった。
綿毛のように軽い、ふわふわの茶色の髪。顔の下半分まで覆うみたいにぐるぐるに巻きつけたマフラー。紺色のピーコートの下から、ジーンズを履いた細くすんなりとした脚が伸びる。
ここ二年ほどでいくぶんたくましくなった感はあるが、それはむしろ表情や振る舞いが与える印象で、二十二歳の青年としては相変らず華奢な体型だ。背後から抱き寄せると、時宏の両腕の中にすっぽりと収まる感じがなんとも心地よい。
だが、まさか匂坂家の正面玄関でそんな大胆な行為に及ぶわけにはいかない。三人いる聖冬の姉たちは、弟と時宏との関係がただの同居人ではないことを薄々感づいているようだが、父の始(はじめ)はさすがに、自分の経営する喫茶店にコーヒーのスペシャリストとして引き抜いた男が、それより一回りも年下の自分の一人息子と恋仲になっているなどとは想像もしていないだろう。
「キー、遅いぞー。あ、時宏さんもようこそー」
玄関の上り框で出迎えてくれたのは、三女の秋穂(あきほ)だ。匂坂家の姉弟はいずれも美形揃いなのだが、中でも彼女の容姿は一際華やかだ。さらさらのロングヘアにモデル並みのプロポーション、そして二十九という年齢を感じさせない、アイドル顔負けの愛らしい顔立ち。だが、本人は筋金入りのオタクで「三次元の男に用はない」と豪語している。大学の先端科学研究所で研究職にあるが、変わり者には事欠かない職場でも群を抜いて変人で通っているらしい。
「ローストチキンそろそろ焼けるよ」
「えっ何、今年は鶏焼いたの? 丸ごと?」
「うん、春姉と征文(まさふみ)さんが張り切ってた」
時宏が出されたスリッパを履いて、コートを秋穂に預けているうちに、聖冬はぱたぱたと廊下を走って、広いダイニングの方へと向かってしまう。時宏も慌てて後を追った。
「わーいい匂いー」
ダイニングのドアを開けるなり、聖冬が歓声を上げる。
テーブルは大人数のディナー用にセットされ、既にいくつか料理も並んでいた。
今日は、十二月二十五日の聖冬の誕生祝い兼クリスマスパーティなのだ。もちろん、カフェは書き入れ時で店舗は月内は無休なのだが、それでも、当日が無理でもこうしてなるべく近い日付に、家族が全員揃って祝うことになっている。聖冬のたっての希望で今年は時宏もその席に招待されたのである。
「あ、きいちゃん。それに時宏さん、いらっしゃい。どうぞどうぞ、座って」
サラダを盛り付けた大皿を運びながらこちらを振り向いたのは、長姉の春花(はるか)だ。柔らかな癖のあるショートヘアに華奢な体つきと、外見は聖冬と一番よく似ている。聖冬は五歳で母親を亡くしてから、この十三歳年上の姉を母のように思って育ったらしい。その春花にあれこれと仕込まれたためか、聖冬は金持ちの家の末っ子長男とは思えないくらい、家事はなんでもそつなくこなす。
「あ、どうもこんばんは」
その傍らで時宏にぺこりと頭を下げたのは、春花の夫の香田征文(こうだまさふみ)だ。時宏が務めるコンセプトカフェ「ドラゴンロア」を運営する、聖冬の父の会社「株式会社ジョルナータ」の専務取締役である。司法書士の資格を持つ有能な実務家だが、エリート然としたところがまるでなく、妻の実家に同居していることもあってか、穏やかで腰の低い印象の人物だ。時宏にとっては、聖冬の実家では一番話しやすい相手でもある。
「お口に合うかどうかわかりませんけれど」
その征文に、時宏は手にしていた紙袋を遠慮がちに差し出した。
「や、お気遣いすみません」
中身は赤と白のワイン一本ずつである。先ほど、ここへ来る前にデパートに寄って聖冬と一緒に選んできたものだ。聖冬はさほど酒には強くないが、いずれはワインも本格的に勉強したいと言って、店員にあれこれ詳しく質問していた。
「お料理がわからなかったので、無難なセレクトにしてしまいました」
「いやいや、ブルゴーニュの赤と白なんて贅沢だなー。赤はもう抜栓しておいた方がいいかな」
そんなやりとりをしながら征文の足元にふと目をやると、小さな顔と目が合う。つぶらな瞳に、なぜかぎくりとしてしまう。
「あっ、瑞樹(みずき)もうつかまり立ちができるの?」
隣ですかさず聖冬がしゃがみ込んだ。
「先月くらいから、徐々にね」
「すげえなー見るたびに大きくなってくなー。ほーら、聖冬叔父さんだよー」
そう言って甥っ子を抱き上げ、「うわあ、重い」などと言いながら頬ずりをする。十月に一歳になったばかりの瑞樹は、既に良く知る人の顔の区別はつくらしく、聖冬の腕の中できゃっきゃとはしゃいだ声を上げた。
そんな姿を見ながら、時宏の胸中に複雑な思いが広がる。
瑞樹は春花と征文の長子だが、くりっとした目は聖冬にもよく似ている。聖冬が幼い頃はこんなだったのだろうと容易に想像がつく。
「きーよーと。言える? まだ無理かな」
「とー」
「あっ、今ちょっと言えたね? すごいな、瑞樹ひょっとして天才じゃね」
顔が似ていることもあって、若い父親が自分の子をあやしているようにも見える。
「ほらほら、いい加減にして席に座って。でないと始められないでしょ」
春花に急き立てられて、聖冬と時宏はダイニングの椅子に並んで座る。聖冬は膝の上に瑞樹を抱いている。
「あれ、なっちは?」
テーブルの上の皿やコップにいたずらをしようとする瑞樹を制しながら、聖冬が部屋を見回した。
「仕事の帰りに『クラムボン』に寄って、予約していたケーキを引き取るって。そろそろ帰ってくる頃よ」
春花の返事に、聖冬と時宏は目を見合わせて、にやりと笑いを交わした。
洋菓子店の「クラムボン」は「ドラゴンロア」にもケーキを納入している店だ。そこの跡取りの佐原航(さはらわたる)は時宏の幼馴染である。時宏が同性愛者であることも、中学時代の同級生だった古河龍司(ふるかわりゅうじ)とその後恋人同士になったことも知っている。その恋人を病気で亡くした後に何年も立ち直れずにいた時宏が、聖冬との出逢いをきっかけに過去を吹っ切れるようになったいきさつも、すべて承知している。
その航と、ジョルナータでブランドマネージャーという重責を担う匂坂家の次女の夏実とは、仕事で知り合って以来互いに惹かれ合っているようなのだが、なかなか関係が進展しない。聖冬に言わせると「なっちは甘えたり弱みを見せたりするの苦手だからなー」ということだ。一方航は、時宏が夏実の話を振ると「気の強い女は苦手なんだよ」とそっぽを向いて話題を変えてしまう。
「今日、航さんも招待すればよかったかな」
瑞樹の両手を掴んでバンザイをさせながら、聖冬がひそひそと時宏に囁く。
「莫迦、クリスマス前のケーキ屋なんて戦場だぞ。よその家のディナーに顔を出すくらいなら一分でも睡眠時間を確保したいだろ」
「あ、そうか」
だからこそ、夏実はケーキを取りに行く役を買って出たのだろう。激務の続く航に何か差し入れでも持参したかもしれない。
夏実は、生真面目で妥協を許さない一面もあるが、一方で仕事相手にも細やかな心遣いができる優しい女性だ。態度は軽薄だし口も悪いが、情に篤く根は誠実な航とは、相性のよさそうな取り合わせだと時宏も思う。
「あ、なっちおかえり」
ちょうどそのとき、ダイニングの扉が開いて夏実が顔を出した。きりっとしたショートボブがいかにも「仕事のできる女」風だが、そんな彼女が、聖冬を見るなりとろけるような笑顔になる。
「キヨお待たせ、ケーキゲットしてきたよー」
「やったー。『クラムボン』の今年のスペシャルケーキはなんだった?」
「ふふふ、それはデザートタイムのお楽しみ」
仕事で見るときの彼女よりもずっと雰囲気が柔らかいのは、猫可愛がりしている弟と久しぶりに再会したからだけでもなさそうだ。時宏は心の中でこっそりと航にエールを贈る。
「夏ちゃん、父さんは一緒じゃないの?」
「うん、仕事がもう少しかかるから、主役が登場したら先に始めててくれって」
「あらそう。じゃあ秋ちゃん、冷蔵庫からシャンパン出してくれる?」
「春姉、なんかタイマー鳴ってるよー。それも並べとくからこっち面倒見てー」
「時宏君、乾杯のシャンパンの後はビール飲む?それともそのままワインにしようか?」
「あ、専務すみません。俺は何でもいいです」
「『専務』はやめようよ、今日は仕事じゃないんだから」
「あー瑞樹! それはめっ! お酒は二十歳になってから!」
「ちょっと征文さん、みぃはきいちゃんの膝の上じゃなくて、ちゃんとベビーチェアに座らせて」
匂坂家の食卓はいつもこんな調子らしい。
この賑やかさに毎度面食らう時宏ではあるが、それでも、不快感を感じたことは一度もない。
この家に来るたびに、年下の恋人がいかに濃い家族の愛情に包まれて育ってきたかを実感する。自分の好きなものをまっすぐに信じる聖冬の強さは、こういう家庭で育まれたのだと納得する。
そして、これに匹敵するほどの愛情を果たして自分が注げているだろうか、と考えて、少しだけ後ろめたいような気になるのだった。
もう遅くなったから今日は泊まって行けという家族の勧めを聖冬はきっぱりと断った。
「今日は帰るよ。俺も時宏も明日も店に出るし、ここよりうちの方が店に近いから」
そう言って、時宏と一緒に最寄り駅へと夜道を帰る。
角を曲がって見送りの家族の姿が見えなくなると、聖冬はすかさず手袋をした手を握ってきた。
「時宏、今日はありがと」
「何がだ。こっちこそ、美味い料理をたらふく食わせてもらった上に、なぜか俺までもらいものをして」
姉たちの聖冬へのプレゼント攻勢は恒例行事らしいが、今年は時宏までが、「いつも聖冬がお世話になってるから」などとクリスマスプレゼントをもらってしまったのである。
手に下げた、最近サッカー日本代表の選手が広告に起用されて話題になったファッションブランドの紙袋の中身は、上品なフォレストグリーンのセーターだった。
「あれ、時宏に似合うと思うな。選んだのはなっちかな。アッキーはもっと派手なの着せようとするから」
「それは勘弁してくれ」
そういえば秋穂の趣味はコスプレだった。その感覚で服を選ばれたら、さすがにたまらない。
同じことを想像したのか、聖冬が手を繋いだまま可笑しそうに笑う。
「そういえば、時宏、最近黒ばっかり着なくなったよね」
「……ああ」
亡くした恋人のことを忘れてしまったわけではない。短かった彼の人生を幸せで満たしてやれなかったという悔恨は、今も時宏の胸の一隅を占めている。
でも聖冬は、龍司への想いを背負ったそんな時宏のことを、そのまま精一杯受け止めようとしてくれたのだ。
そんな聖冬の隣で、いつまでも黒ばかり着ていたくなかった。
「ありがとう、って言ったのは、今日、時宏が父さんに言ってくれたことに対してだよ」
手を握ったまま、聖冬が時宏に身体を寄せてくる。
「ん?」
「俺のこと頑張ってる、って言ってくれたこと」
都内に複数の店舗を有する人気のカフェチェーン「ジョルナータ」を経営する匂坂始氏は、喫茶店業界では有名人であり、時宏も聖冬と出逢う前から成功者として仰ぎ見ていた人物だった。コーヒーやスイーツ、そして店舗の調度などに対する細かなこだわりを捨てることなく、それでいて幅広い層の利用者に居心地よく過ごしてもらえる店づくりを目指す卓越したバランス感覚は、おいそれと真似ができるものではなく、いつも感心させられる。
そんな父の背中を、聖冬は幼い頃から憧れの目で見てきたのだという。末っ子として甘やかされることを嫌い、いつか父の跡を継ぐことを目標に努力を続けてきた。
この二年間、時宏はその努力を一番近くで見てきた。
一年半ほど前、時宏は一人で切り盛りしていた「アンモナイト」という喫茶店を聖冬の父の会社に売却した。店は建て替えられ、「ドラゴンロア」として生まれ変わった。時宏は今その店でチーフコーヒースペシャリストとして働いている。
その新店舗の開店当初から、聖冬はアルバイトのスタッフとして、学業の傍ら毎日店に通い続けてきた。
大学の授業が終わるとその足で「ドラゴンロア」に向かい、閉店まで働く。トイレの掃除もフードの仕込みも接客も、どんなバイトよりも熱心に取り組んだ。それを、定休日を除いて一日も欠かさず続けている。正社員の時宏と同様、定休日以外に月に三日の休みは取っているが、聖冬はその休みの日にも客として店に通い、気付いたことをメモしたりしていた。土日祝日も必ず何時間かはシフトを入れ、ゼミの飲み会にも、一度店に顔を出してから合流する、という徹底ぶりだった。
その分、大学の勉強がおろそかになっているのではないかと、父親の始氏は心配していたのだ。
「聖冬君に限ってそれはないと思いますよ。試験前は、こちらが心配になるくらい遅くまで勉強していますし、今書いている卒論も教授に高く評価されていると聞きました」
今日の食事の席で、時宏はそう太鼓判を押したのだ。
聖冬は、「アンモナイト」時代に店舗の二階の時宏の住居に一緒に住み込んで、大学に行く傍ら店を手伝ってくれていた。その流れで、今も「ドラゴンロア」の近くに借りた部屋に時宏と一緒に住んでいる。
遅くまで勉強している夜などに時宏がコーヒーを淹れてやると、そのまま勉強はそっちのけでコーヒー談義が始まってしまうこともあるが、基本的には、大学と店と、どちらも中途半端にせずに両立させようと人一倍努力していた。
「自分で志した好きなことでも、ここまで頑張れる人間はそうはいません。少なくとも俺にはできない。尊敬しますよ」
時宏がきっぱりとそう請け合うと、始氏は少し驚いたような顔をした後、嬉しそうに相好を崩したのだ。
「あれだって別に礼を言われることじゃない。話を盛ったわけでもないし、事実をそのまま言っただけだろ」
わざとぶっきらぼうにそう言うと、聖冬は繋いだ手で時宏を引きとめるように立ち止まった。
「でも。時宏が、俺のことあんな風に見ててくれてたなんて、嬉しかった」
ちょうど街灯の影になってしまって、俯き加減の聖冬の細かい表情はわからない。
「まあ、お前の言い出したらきかない頑固っぷりは俺が誰よりよく知ってるからな」
「なんだよ、褒めてくれたんじゃないの?」
「褒めただろ」
「今のは褒められた気がしない」
表情はわからないが、声がむくれている。
時宏は苦笑した。
「拗ねるな、可愛いだけだから」
「拗ねてなんかいない」
マフラーの下で、絶対に今、口を尖らせている。
人通りのほとんどない住宅街の細い道だ。おまけに、夜遅くて人の顔も詳細には見分けられない。このくらい許されるだろうと、時宏は聖冬の華奢な肩を抱き寄せた。
マフラーを顎の下まで引き下ろして、思った通りつんと尖っている唇に、小さくキスをする。
「時宏っ」
聖冬が抗議するような声を上げるが、至近距離で顔を覗き込むと、照れているだけなのがわかる。
「お前がそんな可愛い顔をするから、家まで待てなくなっただろ」
「何それ、俺のせい?」
「当たり前だ」
本来、時宏は愛情を行動に反映させるのが得意な方ではなかった。だが、くるくるとよく変わる聖冬の表情を見ているだけで、最近は口元が自然と緩む。
「じゃあ、もう早く家に帰ろう」
背伸びをして、聖冬が時宏の耳に囁く。
「早く帰って、何をするんだ?」
「時宏の安眠を妨害するんだよーだ。もう俺、明日から大学は休みだもんね」
「俺も明日は午後のシフトだけどな」
聖冬が、さっきよりも大胆に腕を絡めてくる。その頬にもう一度キスを落とすと、くすぐったそうに笑う。
改めて駅の方へと向かおうと足を踏み出そうとしたとき、その影に気付いた。
街灯を背に、地面に伸びる影。自分のものと、隣にぴったり寄り添う聖冬のものと、そして、もうひとつ。
思わずぱっと後ろを振り返って、時宏は息を呑んだ。
「あ……」
ダウンを羽織って紙箱を手に、呆然とした様子でそこに立ちすくんでいたのは、夏実だった。
弾かれたように聖冬の身体を離したが、目を丸くして絶句している夏実の様子を見る限り、そんなことをしたところでもう遅かった。
「なっち! な、なんで?」
うろたえた声の聖冬に、夏実ははっと我に返ると、手にしていた紙箱を差し出す。
「忘れてったでしょ、今日のケーキの残り。あんたたちが電車に乗る前に追いつけるかと思って」
「あ」
今日のディナーのデザートは、「クラムボン」の今年のスペシャルクリスマスケーキだった。フランボワーズ風味のガナッシュを使ったブッシュ・ド・ノエルで、時宏が匂坂家のキッチンで腕を振るって淹れたコーヒーとの相性も抜群だった。
だが、さすがにごちそうをふんだんにいただいた後で、大人七人でも全部は食べきれなかった。残りは時宏と聖冬がもらって帰るということにしていたのだが、冷蔵庫に戻したまま忘れていた。
夏実はそれを届けに来てくれたらしい。
「……ありがと」
ばつの悪そうな顔で、聖冬がそれを受け取る。
夏実は箱を渡すと、問いかけるような視線を聖冬から時宏の方に移した。
時宏は覚悟を決めた。きゅっと口を結んで顎を引く。
「こんなところで、こんな形でお伝えすることになってしまってすみません。俺と、聖冬君とは、付き合ってます。その、恋人として」
そこまで言うと、時宏は夏実に深く頭を下げた。
「申し訳ありません。でも、いい加減な気持ちじゃありません」
夏実は顔を上げた時宏の顔を正面から見た。
弟に良く似た、嘘やごまかしを嫌う、まっすぐな視線。
「時宏さん」
「はい」
「少しだけ、二人で話をしてもいいかな」
「なっち、あのさ……」
何か口を挟もうとする聖冬を制して、時宏は頷いた。
「聖冬、悪いけど一足先に帰っててくれるか」
「時宏! なんだよそれ、俺にもちゃんと説明させろよ」
本気で怒っている。その聖冬の怒りが間違っているとは思わない。だが、時宏は首を横に振った。
「悪い。ちょっとだけ、夏実さんと二人で話をさせてくれ」
聖冬は明らかに傷ついた顔をした。
だが、時宏の決意が変わらないのを見ると、ケーキの箱を手にしたまま渋々と頷いた。
「なっち」
「何」
「俺、姉さんたちや父さんに何を言われても、時宏と別れるつもりはないからね」
夏実の口元が、小さくほころんだ。
「そんなこと言わないよ。でもごめん、ちょっとだけ時宏さん借りるね」
聖冬は少しだけ安心した顔をすると、もう一度時宏の顔を見て、それからくるりと回れ右をした。
「寒くないですか。どこか、二十四時間営業のファミレスにでも入りますか」
地面に八つ当たりをするかのように大きな歩幅で駅に向かって歩いていく聖冬の後ろ姿を見ながら、時宏は夏実に訊く。だが、夏実は首を振った。
「そんなに時間はかからないから」
夏実は、時宏より一歳下の三十三だ。だが時宏は聖冬の姉たちに対しては、向こうがどれだけ気さくな態度で接してくれても、もれなく敬語を使ってしまう。
「さっき聖冬君もああ言ってましたけど、俺も別れるつもりはないです」
「別れろなんて言わない。聖冬だってとっくに子どもじゃないんだし、そんなこと、家族が決めることじゃないもの」
時宏は黙って頭を下げた。
「佐原君に聞いたの」
「何をですか」
「時宏さんが昔付き合ってたっていう男の人のこと。家族の反対を押し切って同棲したけど、その人は病気で亡くなってしまって、時宏さんがずっと自分を責めていたって。過去は過去と割り切ることができるようになったのは、多分、聖冬のおかげだろうって」
こういう内容を、わざとらしい同情や遠慮を排してさばさばと語るところが、夏実の人柄の清いところだと時宏は思う。
「あいつがどんな言い方をしたかは知りませんが、基本的に全部事実です」
「佐原君にね、誰かと本気で付き合うつもりはあるのか、って訊いたんだ」
「へえ」
そういえば、昔から明るく気の置けない性格で人気者ではあったが、航が特定の女子と真剣な付き合いをしているという話はほとんど聞いたことがなかった。
「そしたらね、『時宏と龍司の覚悟と比べたら、自分なんていい加減すぎて、誰かと付き合うなんて十年早いって気になる』だって」
「……なんだそりゃ」
時宏は本気で呆れた。それを見て、夏実はにっこりと微笑む。
「そう。なんだそりゃ、って思うでしょ? 十年経ったらあんた何歳よ、って。でもね、なんとなく、佐原君の言ってることもわかる気がするんだ。時宏さんて見るからに一途で真面目そうだから」
「は?」
眼を白黒させる時宏に、夏実は静かに笑いかける。
「きっと、聖冬とも覚悟を決めて付き合ってくれているんだと思う。時宏さんの誠意を疑ったりしない。でも、もしできたらあの子のためにも、少しだけ肩の力を抜いてくれないかな」
「え」
一瞬、言われた意味がわからなくて時宏はきょとんとする。
「聖冬も、融通が利かなくて頑固で、自分でこう、と決めたら絶対に引かないところがあるでしょ」
「それはもう」
「まあ、うちはみんなそうだから家系なのかもしれないけどね」
「なるほど……って、いや、その」
夏実に対して失礼なことを言うつもりはなかったので、時宏は柄にもなくうろたえる。夏実が聖冬とよく似た明るい笑い声を上げ、それからふと真顔に戻った。
「『ドラゴンロア』でも本当に頑張ってると思う。大学の成績もいいみたいだし。でも、ちょっと頑張りすぎなんじゃないのかな、って時々心配になるのよね」
「はい。それは俺もです」
恋人を病で亡くした経験から、時宏は聖冬の体調のことがどうしても気にかかってしまう。徹夜でレポートをやってそのまま大学に行ったりしている様子を見ているとはらはらするし、少しでも青い顔をしていたり咳をしていたりすれば、医者へ行けとうるさく言ってしまう。
「何をそんなに焦ってるんだろう、って不思議だったの。でも、それが腑に落ちた」
「どういうことですか」
「あの子、早く時宏さんに見合う大人になりたいって思ってるんじゃないかな」
思いもよらぬ指摘に、時宏ははっと息を呑んだ。
「ああ、そうか……くそ」
自分への悪態が口をついて出た。
「聖冬が誰よりも認められたいのは、今は私たち家族じゃなくて、時宏さんなんだと思う。だから、頑張りすぎなくても大丈夫、ってあの子に言ってあげられるのも、時宏さんだけなのかな、って」
夏実の言葉に、時宏は無言のまま深く頭を垂れた。
頑張ってると言ってもらって嬉しかった、と、さっき照れたように言っていた聖冬の顔を思い出す。
こんなことにも気付いてやれなかったなんて、と、唇を噛む思いだ。
「誤解しないでね。時宏さんを責めてるんじゃないの。むしろ、聖冬と真面目に付き合ってくれて、大事にしてくれて、ありがとう、って思う。私は二人が付き合っててよかったって思うし、それは聖冬にも言うつもり」
「いや。それはこっちの台詞です。俺みたいな人間を家族で受け入れていただいて、感謝しています」
「ふふふ、あんまり簡単に言わない方がいいよ。まだ父さんがなんて言うかわかんないしね」
「そんときは、夏実さんに援護を頼みます」
「味方につけるならお姉の方がいいよ。私なんて、佐原君以上に恋愛経験の少ないオーバーサーティー独身女なんだから、頼られても困る」
「それまでに恋愛経験値を上げておいてください」
「こら、勝手なこと言うな」
夏実が腕組みをして時宏を睨む。時宏はおどけて肩をすくめる。
そのときだった。
「夏実……と、え、時宏?」
後ろから素っ頓狂な声がして、時宏は驚いて振り向いた。
「航?」
道の端に止めた配送用の軽ワゴンの運転席から降りてきたのは、まだコックコート姿の航だった。「うわびっくりした」と言いながら、金色に染めたつんつんと短い髪を自分の手で掻き混ぜる。
「お前こんな住宅街の暗がりで、美人と二人で何やってんだ。聖冬君に言い付けるぞ」
「お前こそ何やってんだよ。俺がここにいちゃまずいことでもあんのか」
時宏が反撃すると、いつも飄々とした航が珍しく視線を泳がせた。
「お疲れさま。仕事終わったの」
その泳いだ視線の先で、夏実が言う。感情の揺れを覆い隠そうとするかのように、さっきとは打って変わって淡々とした口調で。
「ああ……さっきは悪かった。ろくに話もできなくて」
「ケーキを取りに行っただけで、話をしに行ったわけじゃないもの」
「でも差し入れのサンドイッチ美味かった。ホント、食いもん作ってるのに、ああなると食う暇ねえんだ。ま、作ってるものもだんだん食いもんに見えなくなってくるけどな」
「そんなことしてると倒れるよ」
「これから家帰って風呂入ってぶっ倒れる予定だから、その前に、礼だけ言いに来た」
「そんなのいいから、早いとこぶっ倒れてきなさいよ」
「そんなのってなんだよ、義理堅い人間の善意を無下にすんなよ」
いつもの調子の航の頭を、時宏は後ろからぱしんとはたく。
「いて、なんだよ時宏」
「義理とか善意とか言ってるからお前はダメなんだ」
「はあ?」
「じゃあ、俺は聖冬を待たせてるから帰る。夏実さんすみません」
「はーい、気をつけてね。またお正月に二人で遊びに来て」
「ありがとうございます。冷え込んでますから、長いこと外にいて風邪引かないように」
最後に意味ありげにそう言うと、時宏はなんだかんだと仲の良さげな言い合いを続けている二人を置いて、駅へと小走りで急いだ。
航に偉そうなことは言えない。自分も似たようなことをやらかしている。
聖冬を不安にさせたくなくて、自分の戸惑いやためらいは言葉には出さないようにしていた。歳が離れている分、変に気後れがして素直に自分の弱い部分を明かせないようなこともある。
だが、そうやって時宏が黙って不安をやり過ごしているのを感じとって、聖冬は逆に、自分が信頼されていないと誤解したのかもしれない。
今は一刻も早く聖冬の顔を見て、強く抱きしめて、何よりも大切なことをまっすぐに伝えたかった。
聖冬がどれほど、自分を幸せにしてくれているか。
自分がどれほど、聖冬を幸せにしたいと願っているか。
マンションの部屋に戻ると、迎えてくれたのはふわりと温かな空気と、聖冬のふくれっ面だった。
「遅い」
「悪かった」
両頬に手を当てると、聖冬は「つめたい」と身をよじる。構わずに引き寄せて、額に優しくキスをした。
だが、聖冬は不満げな顔を引っ込めようとはしない。この程度ではごまかされない、と言わんばかりだ。
「時宏」
大きな黒目で、照準を合わせるようにまっすぐ時宏の目を見つめる。
「どうして、なっちに謝ったんだよ」
「え」
「俺と付き合ってるのって、時宏を、俺の家族に謝らせないといけないことなんだ?」
「聖冬」
「俺との関係を、時宏は後ろめたく思ってる? 正直に答えて」
瞬きもせずに見上げてくる表情を見ただけでわかる。聖冬はずっとこのことを考えていたのだ。おそらく、二人で寄り添っているところを夏実に見つかるよりも、はるか前から。
この関係を続けていてもいいのだろうか。自分の存在は相手の重荷になっていないだろうか。きっと、そんなことをぐるぐると心配し続けていたに違いない。
その心配が手に取るようにわかるのは、同じようなことを時宏も考え続けてきたからだ。
自分の中にわだかまっているその心配をごまかそうとしてきたから、かえって聖冬を不安にさせていたのだ。
「聖冬。聞いてくれ」
突き刺さるような聖冬の視線に、正面から対峙する。
「お前とこういう関係になっていることを、俺自身は誰にも恥じるつもりはない。それどころか、自分みたいな人間には身に余る幸せだと思ってる」
「でも、だって」
すかさず反論しようとした聖冬を制するように、その両肩を引き寄せて、腕の中に大切に包み込んだ。
聖冬の身体がすっぽりと胸の内側に収まる。こうして抱きしめるたびに、もう二度と離せないような気になる。
その姿勢のまま、時宏は静かに口を開いた。
「でも、それと、お前の家族に謝ることとは別だ」
「どう別なのさ」
聖冬の声が揺れる。
時宏は聖冬のふわふわの髪をそっと撫でた。
「なあ、聖冬。俺がいなければ、お前はきっと、普通に女子と恋愛してたろ」
「……へ?」
「お前、俺と会う前から男が恋愛対象だったわけじゃないだろ。俺とこんなことにならなければ、誰か同世代の女の子と付き合っていてもおかしくなかったんじゃないか」
時宏の店を手伝っていた頃から、聖冬が自分にほのかな好意を寄せてくれていたことには気付いていた。だが、自分が同性愛者だというはっきりとした自覚は、聖冬自身にはなかったようだ。もしかすると、今もないのかもしれない。
セクシャリティは自分で選べるものではない。その一方で、生まれたときからきっぱりと線引きがされているようなものでもない。関係性の中で常に揺れ動く。その揺れ幅がほとんどない人が多いというだけだ。
曖昧だった聖冬の境界線を揺らしたのは、他ならぬ時宏だ。それがわからないほど時宏は間抜けでも鈍感でもないつもりだった。
「そんな、実際には起きなかったことを想像しても仕方ないだろ」
むっとした声で聖冬が言う。時宏は首を振る。
「想像するなって方が無理だ。いずれ誰かと幸せな結婚をして、子供が生まれて、新しい家庭を築くお前の姿を想像するのは、お前の家族にとってはごく自然なことだろう」
今日の一家団欒の様子を脳裏に思い浮かべる。瑞樹を抱き上げた聖冬の姿には、どこにも不自然なところはなかった。同じような光景が何年か後にも繰り返されると彼らが信じたところで、誰がそれを責められるだろう。
「俺は、お前から、そして匂坂家から、新しい家族を増やす幸せを奪っているんだ」
あの、暖房費さえ節約できそうなほどあたたかな家庭で育った聖冬のことだ。さぞかし愛情溢れる父親になることだろう。そんな聖冬を見てみたかったと、時宏でさえ思う。
しかし、自分と一緒にいる限り、聖冬にその未来はない。誰よりもその幸せに浴する権利がありながら。
「あのさ、時宏」
「なんだ」
「この先、俺には新しい家族ができない、なんて勝手に決めつけないでくれる?」
「な」
思わず弾かれたように身体を離した。
呆然として聖冬の顔を覗き込むと、聖冬はつんと顎を上げて、どこか挑むような目つきで時宏を見上げている。
たった今聖冬が言った言葉を頭の中で反芻する。嘘だと言ってくれ、と叫びそうになる自分を必死に抑える。
「聖冬……お前まさか、その……いやもちろん、そうなら、俺は……お前の意思を……」
混乱してしまって、自分でも何を言っているのかわからない。
「時宏?」
いつか聖冬が自分の意思で、時宏とは違う誰かとの未来を選ぶ日が来るのだろうか。
冷静に考えれば、それは当たり前の可能性だ。なのに、漠然と想像しただけで、時宏は世界から光が消えてしまうような絶望を味わう。
おろおろとうろたえるそんな時宏を、聖冬はじっと見上げていたが、ふいにぷっと吹き出した。
「やだなあ。何、突然しどろもどろになってんのさ」
「おいこら、待て。爆弾発言をしたのはお前の方だろうが」
「そんなに驚かなくてもいいだろ」
離れていた身体を、聖冬がもう一度引き寄せる。
「だって、時宏はもう、俺にとって家族みたいなものなんだから」
「……俺?」
「『みたいなもの』じゃなくて、いつか本当に、家族になれたらいいなあ、って」
回された腕に、きゅっと力が込められた。
「俺、ちゃんと、時宏のパートナーに、ふさわしい人間になるから。頑張るから」
「聖冬」
ぱたぱたとオセロの駒が隅から裏返っていくように、一瞬で真っ黒に塗りつぶされた時宏の心が、同じように瞬く間に真っ白になっていく。
「ったく、驚かすなよ」
思わず安堵のため息をつく。そして、さっきの恐ろしい想像を押し返すかのように、もう一度聖冬の身体をしっかりと抱きしめ返した。
「大体、日本じゃまだ正式には家族になれないだろうが」
「制度なんて関係ない。気持ちの問題」
「お前の家族にだって反対されるかもしれない」
さっき夏実に言われたことを思い出す。時宏と家族との板挟みで聖冬を悩ませるようなことは、もう二度とさせたくない。
「そんなことないと思うな」
だが、何を思い出したのか、聖冬はくすぐったそうに笑った。
「特に父さんなんて、息子がもう一人増えたら大喜びすると思う。春ちゃんが結婚するときだって、同居を征文さんに頼み込んだのは父さんだったし」
「俺の場合は、専務のケースとは相当に事情が異なると思うが」
まあ、今からそんなことを心配してもどうしようもないか、と時宏は肩をすくめた。
その時宏の頬を、聖冬が軽くつねる。
「いて、なんだよ」
「まだ答えもらってない」
「答え?」
ぷう、と聖冬が頬を膨らませる。
「ねえ、わかってんの?俺、さっき、プロポーズしたんだけど」
「ああ。わかってる」
つねられた頬に、笑みが広がる。
まだ頬に軽く触れたままだった聖冬の手をとって、指を絡めた。
「条件がひとつだけある」
「え。何?」
たちまち、聖冬の顔が心配そうに曇った。さっき驚かされた仕返しとばかりに、わざと難しい顔を作る。
「頑張らないこと」
「……へ」
今度は目を丸くする。本当に、表情がくるくるとよく変わる。
「カフェの経営者になる夢を叶えるためなら、全力で頑張ればいい。でも、俺にふさわしい人間になるためなんて、そんな莫迦なことに労力を使うな」
「莫迦なことじゃないだろ!」
「莫迦だよ……お前は、本当に」
聖冬は愚鈍とは程遠い。聡いだけでなく感性も鋭い。それでいて気質は明るく前向きだ。それなのに、時宏がこんなにも年下の恋人にめろめろになっていて、むしろ自分の方が聖冬にふさわしくないのではないかと事あるごとに思い煩っていることには、どうして気付かないのだろう。
「夏実さんやお前の家族に申し訳ないと思うのは、この先何があっても、俺はもうお前のことを手放せないと思うからだ」
つないだ手を引き寄せて、聖冬の指の付け根に唇を押し当てた。
「早まった、なんてお前がこの先後悔しても、撤回なんてさせてやらない。お前のいない人生なんて、俺にはとっくに考えられなくなってる」
業が深いと我ながら思う。
「時宏」
聖冬の唇が時宏の名の形に開かれ、また、所在無げに結ばれる。
時宏は手を離すと、今度はその唇にキスを落とした。正しいありかを教えるように。
「ん……」
吸い付くように触れ合わせ、軽くついばむようにして促す。聖冬の唇が待ちかねたようにほどかれる。
「時宏……」
口づけの合間に零れる声に、少しずつ、甘い響きが加わっていく。その声で時宏の名前を何度も繰り返す。
その都度応えるキスも、少しずつ長く、深くなっていく。舌を絡ませ、口蓋をくすぐる。漏れる吐息さえ呑み込む。
唇を離すと、今度は聖冬の方から追いかけるように鼻先をこすりつけてくる。
「時宏のキス、好き……」
「俺の、ってことは、比較対象があったのか」
そんなこと欠片も疑っていないくせに知らん顔で耳元に囁きかけてしまうのは、全力でそれを否定する聖冬が見たいからだ。
案の定、聖冬がふるふると首を振る。ふわふわの毛先が時宏の鼻先をくすぐるのが心地よい。
「知ってるだろ」
「いや、知らなかったな。誰のキスと比べたんだ」
「誰とも比べてない」
背中に回された聖冬の手が、時宏のセーターをきゅっと握りしめる。
「俺には、時宏だけだってば」
そんな一言で、たやすく心が羽ばたく。
「好きなのは、キスだけか?」
キスだけではとても引き下がれないのは、むしろ時宏の方だ。
滑らかなうなじに吐息を沿わせると、聖冬の背中がぴくりと震えた。ローゲージのケーブル編みのセーターの襟首を指で引っ張り下ろし、脊椎の一番上に吸い付く。
「ぁ……」
聖冬の唇からこぼれるかすかな声が、時宏の鼓膜だけでなく、心臓までも震わせる。
下に着たカットソーごとセーターの裾をまくり上げ、薄い肌の上に指先を這わせる。ぴくり、と聖冬が背をこわばらせた。
掌で、滑らかな肌の上に円を描く。誘いかけるようにゆっくりと。
「ん……っ……」
今度は、腰から首の下まで、脊椎をまっすぐなぞる。折り返してもう一度下まで撫で下ろし、さらに聖冬の履いているジーンズのウエストを、親指でぐい、と押し下げた。
時宏の腕にしがみつくようにして、聖冬が首を小さく左右に振る。
「やだ」
「ん?」
聖冬が後ろ手に、時宏の手を引っ張ってはがした。
「あ……」
しまった。
胸元で俯いた聖冬の耳が、ぼうっと赤く染まっている。時宏は思わず自分に舌打ちをしそうになった。なけなしの包容力を総動員して精一杯甘やかしてやろうという決心はどこへやら、聖冬の可愛さにやられて、見境なくがっついてしまった。
すまない、と、謝りかけたときだった。
「ここじゃ、やだ。ちゃんとベッドでして」
聖冬が時宏の手を引いて、部屋の奥の方へと歩き出そうとする。
「え……と」
「早く」
白皙の頬をほんのりと染め、桜色の唇を尖らせ、わずかに潤んだ大きな黒目で時宏を睨む。
こんなの、逆らえるわけがない。どう転んでも、自分はこの年下の恋人の言いなりだ。時宏は心の中で白旗を掲げた。
時宏の部屋に聖冬が入ってくるのは久しぶりのような気がする。
ただの同居人という家族に対する建前もあって、聖冬と時宏は寝室を分けていた。ベッドを共にするのはいつも時宏の部屋だ。聖冬の机のすぐ隣でそういった行為に及ぶのは、なんだか聖域を侵しているかのようで、時宏にはどうも居心地が悪い。
セミダブルのベッドの上で、聖冬がセーターとインナーを脱ぐ。露わになった上半身を見ながら、少し痩せたのではないか、と心配になる。もともと華奢な体つきだが、以前より鎖骨が目立つような気がする。
だが、痩せたか、と問い詰めても、聖冬は心配をかけまいとして否定するだけだろう。
時宏は自分も上半身裸になると、聖冬の背中を抱え込むようにして、ベッドに腰を下ろした。細い身体を両腕でしっかりと抱き寄せ、体温を分け合うように肌を密着させる。
「どこを、どう、してほしい」
「え」
「誕生日も近いし、今日はなんでも聖冬のリクエストを聞いてやる。とことんわがまま言ってみろ」
「なに、いって……」
すかさず反論しようとする聖冬の唇を、人差し指で押さえた。
「俺は気が利かないから。言わなくてもちゃんと察したりしてやれる彼氏じゃなくて、ごめんな」
人差し指を滑らせて、そのまま背後から抱え込むように顎のラインをなぞる。聖冬の顔は小さくて、指の長い時宏の片手の中に包んでしまえそうだ。
「もう、ずるいなあ」
聖冬が時宏の腕に背中を預けてくる。
「何が」
「そんな言い方、まるで俺が時宏に不満があるみたいだろ」
「ないのか?」
「あるわけない」
頬を寄せると、くすぐったそうに笑う。
「……全部、好きだよ」
聖冬の声がひそめられて、吐息のように変わる。
「時宏に触られると、どこも全部、気持ちいい」
首をひねって時宏の顔を見上げてくる聖冬は、無邪気を装った誘うような表情をしている。いつの間に、こんな蠱惑的な顔をするようになったのだろう。
「そういう顔をすると、優しくしてやる余裕がなくなるからやめろ」
「そんなこと言うけど、時宏、なんだかんだでいつもすごい優しいもん」
「莫迦。俺の理性が毎回どれだけ厳しい試練に晒されていると思ってるんだ」
「いいよ。そんな、無理に優しくしなくても」
「お前は……くそ、なんのつもりだ」
奥歯を噛みしめながら低い声を漏らす。
「煽りやがって、知らねえぞ」
「あ……っ」
細いうなじに噛み付くようなキスを落とす。白い肌にうっすらと歯を立てると、聖冬がびくりと背を震わせた。
両手を脇から胸元に回し、小さな突起を探り当てる。
「ぁんっ」
糸を弾くように爪の先でつついた後、すぐに指を離す。その後はわざと感じやすい先端をよけ、その周りを囲い込むように指先を滑らせると、聖冬が背中をよじった。
「あ……やだ……」
「ん?」
今度は、なだらかな胸を掌で覆うように撫で上げる。
「なんだ、何が嫌なんだ?」
「ちゃんと……」
「触ってほしいか?こんな風に?」
「あ、ぁあっ」
小さな尖りを、中指と親指でつねるように強くつまみ上げた。
「ぅんっ」
こりこりと強く指先でこすり上げる。指の腹でくにゅりと転がす。
「それっ……あ、ぁ……」
聖冬が細い身体をばねのように仰け反らせて喘ぐ。
「随分、感じやすくなったな」
聖冬の肩を顎の下に挟むようにして、胸元を覗き下ろす。そこは、刺激に反応してほんのりと薄紅色に色づき、ぷつりと芽吹き始めている。
「時宏が、触るから、だろ」
もともと、聖冬の身体はとても繊細な感覚を備えている。味覚と触覚には相関性でもあるのかもしれないと思うほどだ。しかし最近は特に、時宏の触れ方に一つひとつ、健気なほど細やかな反応を返すようになってきた。
「こっちは、まだ触ってないけどな」
胸を弄っていた指を臍の下まで滑り下ろし、ジーンズの前立てを軽く撫でてやる。
「やぁんっ」
厚地の布越しにも、形を変え始めているのがはっきりとわかる。
ボタンを外してジッパーを下ろし、緩めたウエスト部分に手を突っ込んで、一気に引き下ろした。ショーツとまとめて両脚から引き抜く。聖冬が身体をねじろうとするのを、また背後から抱え込んで阻む。
「今更恥ずかしがるなよ」
「だって」
「脚、もう少し開いて」
腕を伸ばして、腿の内側で硬くなっているものの根元を手の中に包み込んだ。
「あ、んんっ」
聖冬が頭を後ろに跳ね上げる。
ふたつの包みが既に重たくしこっている。それを掌で転がしながら、もう片方の手を胸元に伸ばす。
「ん、あ……んっ……やぁあ」
上と下と、両方から快感の結び目を攻めほどかれ、聖冬が切なげな喘ぎ声を上げた。
屹立に沿って何度も指を往復させる。先端をくちくちと指の腹でこねる。
しこった乳首は、指先で交互に弾き、きゅうっときつくつまんで、ねじる。
「やあっ、だめ……ね、時宏っ……それ、止めて……お願い」
「どうして?」
「そんな、されると……い、いっちゃう」
「いいじゃねえか、いけよ」
一際強く、根元から先端までこすり上げた。
「だめ……っ」
聖冬の白い身体が細かく震えて、先端から雫が飛び散った。
「ん、は、あ、あぁ」
「濃いな」
手を濡らしたそれをぺろりと舐めて呟くと、聖冬が肩で息をしながら、恨めしそうに時宏の方を振り向く。
「だって……最近してなかった、から」
「そうだな」
店は忙しい時期だったし、聖冬も大学の冬休み前でレポートなどの提出があったようで、互いの部屋で別々に眠りにつく日々が続いていた。
「今日はもうやめておくか?」
あまり身体に負担をかけたくなくてそう訊いてみたが、聖冬はぶんぶんと首を振る。
「そんなの、やだ」
「でも、久しぶりできついんじゃないか」
「久しぶりだから、全然足りないんだってば」
焦れたように腰を浮かした聖冬に、涙声で訴えられる。
「くれよ、時宏……ちゃんと、中まで」
脊椎が導火線と化したみたいだった。不穏な熱が、首の後ろから腰へと、身体の中心を駆け抜ける。
「くそ……」
時宏は低く呻いた。
膝の上に抱えていた身体を、うつ伏せに押し倒す。
「聖冬」
「ん……」
可愛くて仕方ない、という感情は、聖冬と出逢うまで時宏にとっては未知のものだった。時も場所も選ばずに突然自分の中で跳ね始めるその感情を、初めはどう扱っていいかわからなかったくらいだ。
それまで知らなかった自分自身の心の動きに対する戸惑いはいまだに残っていて、こうして聖冬に触れるたびに、時宏は自分がいかに不器用な人間であるかを思い知らされる気がする。奔流のような感情に身を任せてしまったら、いつか傷つけてしまうのではないかと怖くなる。
そんな時宏のためらいを、あっさりと乗り越えてくるのは聖冬の方だ。いつもこんな風に、感覚を丸ごと預けるみたいに身体を開く。
「んくっ……ふ……」
ローションで滑りをよくしたそこは、時宏の指をあっさりと呑み込んでいく。慎重に動かすと、さらに奥へと誘い込むように、きゅんと締め付けてくる。
「ぁん……それ……あ、あぁ」
中で小刻みに曲げ伸ばしをすると、それに合わせて細い腰が揺れる。
「やらしい身体になったな」
白くしなやかな背中の上に覆いかぶさりながら、ふっと呟く。聖冬が喉を仰け反らせて、喘いだ。
「時宏の、せい、だからな」
「うん。わかってる」
愛撫を受けるのに馴れた身体。
馴らしたのは、時宏だ。
「やらしくて、嫌いに、なった……?」
「ん?」
振り向いて時宏と目を合わせた聖冬は、うっすらと涙ぐんでいる。
「莫迦」
その頬に、甘いキスを落とす。
「もっと、うんとやらしくなれ。ただし、俺の前でだけな」
この宝物は、他の誰にも触れさせない。この先ずっと。
「ふ、あっ」
後ろから指を抜くと、聖冬の身体がびくんと震えた。その背をなだめるように撫でると、自分の熱い切っ先を当てがう。
「っ」
聖冬が声を噛み殺した。
尖端が隘路をこじ開ける。互いの感覚を溶かし合うように、じわりと腰を動かす。
「ひ……くっ、ふ……」
聖冬の中は、狭く、柔らかく、熱い。硬く張り詰めたものを押し包まれて、えもいわれぬ快感が全身を走り抜ける。
「ああ……く、そっ」
欲望の手綱を引き絞るような思いで、時宏は呻いた。
「やっぱ、きついじゃねーか」
こんなに強く締め付けて、苦しいのではないだろうかと心配になる。一旦聖冬を解放しようと、ゆっくりと腰を引いていく。
「あ、だ、め」
だが、聖冬の腰に当てた手をはっしと掴まれ、動きを止められた。
「やだ、時宏、行かないで」
「でも」
「お願いっ……」
すがるように、奥がきつく締まる。
「っ」
聖冬の敏感な身体が返す反応は、そのまま時宏の肉体に与えられる快楽となる。一人では決して得られないその感覚は、時宏の理性を溺れさせる。
もう、止められなかった。
「きよ、とっ」
改めて、聖冬の奥深くまで一気に貫いた。
「あ、ひぁ、あぅっ」
細い腰を鷲掴みにして、己の欲望を強く打ち付ける。何度も勢いよく抜き差しを繰り返して、聖冬の体幹をがくがくと揺する。
「あ……ん……あぁ……っ」
「聖冬っ……お前、が、欲しい」
どれほど求めてもまだ足りない。心に生じた激しい渇望のままに、ひたすら聖冬を貪る。
きっとこの先も、何度でも確かめてしまうのだろう。彼がこうしてこの腕の中にいる奇跡を。
「と、き……ひ……っ」
一際深く突き入れて、そのままぎゅっと聖冬の背中を抱きしめる。
「はっ……あ……ああぁっ」
聖冬の背に、たわめられたばねが跳ね返るような緊張が走った。びくん、びくん、と震えた後、がくりと力が抜けていくまで、聖冬の身体に起きた一部始終を、時宏も直接自分の感覚として味わう。
互いの熱が交錯する。あたかも、聖冬との間に感覚の継ぎ目など存在しないかのように、自分の内部にも激しい衝動が伝わってくる。
「くぅ、う」
聖冬の内部に包まれたまま、時宏も、波に押し流されるように自分を解き放っていた。
風呂を沸かし直して二人で入り、シーツを交換して、再び揃って時宏のベッドにもぐりこんだ。
もうとっくに日付は変わっている。匂坂家で振る舞われたご馳走とワインの分はすっかり消費してしまったが、それでも温かい布団の中でさすがに瞼が重くなってくる。
明日は二人とも寝坊ができる。
むき出しの欲情をぶつけ合う瞬間よりもさらに、こういった穏やかなぬくもりの時間が、時宏にとってはかけがえのないものに思える。
時宏は、隣に横になった聖冬の身体を引き寄せた。
「ん……?」
石鹸の匂いのするうなじに、顔を埋めながら、寝言のように囁く。
「聖冬。二十五日の朝、店に出勤する前に、一箇所付き合ってもらえないか」
「二十五日? うん、何?」
聖冬の声もぽやんと眠そうだ。
「墓参り」
ぴくり、と聖冬の肩が揺れた。
「時宏、それって」
すっかり目が覚めたらしく、聖冬が丸く大きな目をさらに大きく見開いて、時宏を見つめる。
「龍司さん、の……?」
六年前に死んだ時宏の前の恋人の名を、聖冬は今でも、どこか畏れ多い言葉のようにそっと発音する。
「うん。お前の誕生日なのに、悪い」
十二月二十五日は、龍司の命日でもある。
「どうしても、あいつの墓前に報告したくてな」
「何を?」
一瞬、不安そうな影を落とした聖冬の顔を、両手の中に包み込む。
「俺にも、新しい家族ができそうだってことを」
ふわふわの前髪を梳き上げて、その額に誓いのようなキスをする。
時宏の首に聖冬両腕が巻きつく。
「時宏」
「うん」
「俺、一緒に行っていいの?」
「お前が嫌じゃなかったら、来てくれ」
「むしろ、龍司さんに嫌がられないかな」
「安心しろ」
昔の恋人の顔を久しぶりに思い出す。芸術家肌で、頑固なくせに繊細で、ちっとも素直じゃなくて、でも、根は優しい男だった。あいつなら、きっとわかってくれるだろう。
「時宏」
「うん」
「ありがとう」
「礼を言われることじゃないぞ」
感謝の言葉ならば、むしろ時宏が口にしなくてはならないのに。
だが、聖冬は小さく首を振ると、さらに強く時宏に抱きついてきた。
「あのさ、時宏。誕生日に、ひとつ頼みごとをしてもいい?」
「なんだ」
「ずっと、一緒にいて」
甘えたような口調に、逆にまっすぐな覚悟を感じる。それは、何も取り繕おうとしない聖冬の強さだ。適わない、と思うと同時に、時宏は背筋が伸びる想いがする。
ずっと、というのは残酷な言葉だ。
人の命には限りがあるし、将来起きることをあらかじめ計算に入れるのは不可能だ。絶たれた約束がその後も長く人を傷つけることがあることを、時宏は知っている。
それでも。
「約束する」
癖のある髪に両手の指を滑らせて、鼻先を埋める。
それでも、何度でも約束する。未来の自分のためではなく、今、この瞬間、腕の中にいる愛おしい存在のために。
了
最後までお読みいただきありがとうございました!
お気に召していただけましたでしょうか。こちらから、一言でもご感想などいただけますと本当に嬉しいです。